僕がこうして立派に成人できたのも、実は豚様や牛様のおかげなのである。ただそれらの肉が大好物で、そのおかげで健康に育ったという理由だけでなく。
畜産農家から豚や牛を買って精肉会社などに売りさばく伯楽(ばくろう)とか呼ばれる仲買の仕事をして、父は僕たち4人の兄弟を育ててくれた。僕が小学校の頃などはずいぶんと羽振りが良かったみたいで、夕食後、父は膝に僕を乗せて毛糸の腹巻きから黒長の皮財布を取り出し、その日の上がりなのか100万近くの大金をさも満足げに数えてはキリンのラガーを2,3杯呷っていた。それが高校くらいになると、大手の進出で父一人の個人経営では人溜まりもなく、その数年後には廃業に追い込まれていた。
今でも鮮明に思い出すエピソードがある。題して『豚の恩返し』農家から仕入れた豚を、相場の値の頃合いを見て出荷するために、一時、家に留め置くために小さいながらも豚舎があった。そこで出産する豚もいて数頭の子豚も飼育していた。その中で妙に人懐こい一頭の子豚がいてそれをしばらくはペットにして特別に可愛がり、藁縄のリードを子豚の首に巻いて散歩に連れ出したりしていた。
それから何年か後、小学校も中学年になって、いたずら盛りの僕に母はほとほと手を焼いて、ある日怒り心頭に達し、薪で尻を強かに殴打した後、豚舎の柱に有ろうことか僕を後ろ手に藁縄で括り付けた。
「もう、せんちゃ」(二度としません)と何度泣いて許しを乞うても許してもらえず、母は僕をほったらかしに部屋の中に消えて行った。
辺りは段々と夕暮れが進み実に心細く、何度藁縄を解こうともがけども素人には思えない完璧な結び方で、途方に暮れたその時、縛られた後ろ手を何度と突く感触を得た。不思議に思って振り向くと、なななんと成長したペットの子豚がその藁縄を解こうとし、ついには本当に藁を食いちぎってくれたのだ。喜んで急いで母の所に行き、「へヘんだ、あっかんべい~」と、また逃げたのだが、その時の「なんで?」といった風な呆気にとられた母の顔を今でも愉快に鮮明に思い出す。
しかし本当に僕を逃してくれた豚が、ペットにして可愛がっていたあの子豚であったかは、実のところ彼らはとても良く似ているので判明困難である。でも僕は間違いなくそうであったと今でも信じて疑わない。
宮崎県での口蹄疫の伝染は大変な広がりをみせて、数十万等にも及ぶ殺傷処分と言う本当に心痛い結果になっている。人類の生存のために、ならばこそ人に食されて初めて成仏してもらえる手塩にかけた家畜を、ただ無下に殺傷処分されなければならなかった畜産農家の人達の心の痛みは僕自身の生い立ちからもその少しはわかるつもりである。
何かしなければの思いから、ライブ会場でファンの皆様の善意をお願いしてグッズのリスト・バンドを買っていただきその売り上げの全額を宮崎県の義援金受付の方に寄付させてもらうことにした。と言っても大した額ではないが、ささやかな気持ちとして。
まずは伝染を絶ち、それから被害に遭われた畜産農家の方たちに安心した保証を与え、宮崎の畜産業が再び復興した上で、もし義援金の一部が残っているなら、今後の教訓のためにも成仏できずに殺傷された豚や牛達のために小さくとも『鎮魂碑』を作ってあげてほしいと心から願う。
他を殺すことにより人は生かされていると言う絶対矛盾を思えども茫然とした哀れを感じるしか仕様がないが、そうだとしても人はもっともっと謙虚になってそれらの命をありがたく頂く気持ちがなければいけないと、僕自身も反省するところ大である。
2010年6月1日