今、『坂の上の雲』という司馬遼太郎さんの小説を読んでいる。全8巻あり、そのうちのちょうど6巻目が終わったところ。
明治の戦争である日露戦争を克明に検証した大作であるが、戦争なんてみんな同じだと思っていたら、この戦争は少し違っているように思える。どう違って思えるかというと、明治維新を終えたばかりの後進国である日本が、欧米列強の植民地ぶんどり合戦に追いつこうとし、しかし逆に、ロシアの南下政策で朝鮮を侵略し、次は日本と、狙われて、ある意味、仕方なしの防衛のための戦争であったようだ。といっても、どの戦争も、貧しい者が戦場に送られて、無惨に、無念に殺されて行くのは同じだが。
この本で作家が一番言いたかったことは、こういうことだと僕なりに推察するに、明治の戦争である日露戦争と昭和の戦争である太平洋戦争では戦争執行者の精神において全く異なっているということだ。国を守るということにおいては両者同じでも、方や防衛のため、方や侵略へと。日露戦争で10対1ぐらいで負けて当たり前のものを、主にロシア側の事情で辛勝したことを、その後の軍部の、どこと戦争をしても負けないんだという神秘的妄想が生まれて、昭和の太平洋戦争に、幾人かの政治家、軍人、企業家たちの暴走に巻き込まれ行き、結局は散々な悲劇に終わった。
つまり、こういうことだ。日常の喧嘩なら売り言葉に買い言葉でもみ合うことはあるし、まぁ、仕方ないことだが。戦争という殺し合いでは、それは困るわけで、威勢のいいことを言う政治家やその周辺の人達には、よく、われわれが監視していかなければならないということだ。彼らも、最初は国を守る純粋な気持ちで当然いても、他国との駆け引きなどに踊らされて、ついには、腹立ちまぎれの威勢のいい啖呵がでないとも限らない。結局、ブッシュの戦争しかり、そんな短慮な指導者をトップに仰いだアメリカは出口のない戦争に苦しんでいるではないか。おおざっぱにしか世界を僕なんかは理解できていないが、司馬遼太郎さんは、そこのところの危惧をこの小説で警告なさっているように思う。
昨夜、総理大臣が代わって、その閣僚の面々が発表された。普段、テレビで威勢のいいことを仰ってる人が多く含まれているような気がする。気のせいであればいいが。いずれにせよ、短命内閣であろうが、国民みんなで、よおく監視していかなければいけない。大義のない紛争に巻き込まれるきっかけさえ与えないためにも。
ただ、今度の総理大臣。僕の地元出身、初めての総理大臣でもあるし、シンパシーを全く感じないわけでもない。筑豊人の心を政治によく反映してほしい。威勢良さとは別な、情けのめんで。
2008年10月1日