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8月24日、母の命日の日に、恩人の葬儀がしめやかに行われた。

8月24日、母の命日の日に、恩人の葬儀がしめやかに行われた。
その恩人の名は、中井國二氏。僕のデヴュー当時のプロデューサーである。 僕のファースト・アルバムのジャケットのカラフルな文字は多摩美大出身の彼のデザインによる。 中井さんは、ザ・タイガース、キャロル、ガロといった往年の音楽ファンなら誰もが知っているスーパー・グループを世に送り出して成功させたカリスマ・プロデューサーで、業界では伝説的な人だった。そんな彼が、僕が19歳の時に当時住んでいた福岡県は久留米に僕の歌を東京からわざわざ聴きに来てくれ、僕をスカウトし、念願のシンガー・ソングライターという夢の入口に立たせてくれたのだった。
僕自身は少年の頃、タイガースのジュリーこと沢田研二さんのファンだったので、中井さんが元タイガースのマネージャーだったことを聞いて、即座にスカウトに応じるつもりでいたが、裏では、若過ぎてデビューが早すぎるんじゃないかとか、詩がまだ幼いところがあるのでアマチュアで2.3年経験積ました方がいいんじゃないかとか色々と意見があったらしいのだが、中井さんの「龍雲はデビューしてから成長して行けばいい」の一言で、20歳の早いデビューが決まった。

 

ツアーの合間やレコーディングで東京に滞在する時は、今から思えばいつも付き合ってくれ、アーティストとしての帝王学みたいなことなどを酒を飲みながら語り教えてくれた。僕はそんな時の中井さんが大好きで、いつまでも話しを聞いていたいと思うほど、その感性に心酔していた。
グアムにレコーディングに行ったり、草野球をしたり、本当に楽しい時代だった。アルバムでいえば5枚目あたりから、少しずつそれぞれの事情で疎遠になって行き、僕が事務所を変わったりしてそれに伴うちょっとしたビジネス的なトラブルもあったが、それでもどんな時も中井さんに対して悪感情を抱くことはなかった。「暖簾」がヒットした平成元年に原宿で祝杯をあげていただいて以降、会うこともないままに今年に至った。

 

中井さんが病気療養中ということを知り、今年4月頃にご家族の迷惑も顧みず御自宅を突然一人訪ねて、「三十年紀行」を聴いてもらいながら昔話をして来たが、言葉こそ少なかったが、CDを聴くその顔に自分の手掛けた不肖のアーティストを慈しむ気持ちが表出しているように感じられ、「35周年のコンサートにはきっと来てくださいよ」と言うと「必ず、行くからな」と握手の手を差し出してくれた。今生の別れになることも知らず御自宅を後にしたが、感謝の想いを最後に伝えることができたことは何かの、もしかしたら母の導きであったかもしれない。

 

「俺が手描きでお前のファーストアルバムのジャケットを作ってやる」
「え?手描きですか?」
「お前の詩を書いてからバケツの中で絵具をたらして、それから」
「すみません。じゃぁ、普通に僕の写真とかはないわけですか?」
「あぁ。なかなか大変なんだぞ、何度もやり直して」
「あぁって、でも他のスタッフは反対してるようですが、僕じゃなくて」
「俺のプロデューサーとしての愛情が感じられて嬉しいだろう? 龍雲」
「愛情ですか? まぁ、確かに。ありがとうございます。???」

 

2011年9月1日